人相術をよくした有名人
聖徳太子も人相術をよくしたといわれ、崇峻天皇の非業の死を予言したと伝えられています。
平安時代には人相術は大いに流行り、貴族たちのファッションにも影響を与えました。
たとえば、女性が眉を剃り落とし、額に黛で描いていたのは、眉が高いのを高貴の相とする見方が広まっていたからといいます。
藤原氏全盛時代、女官たちが相人(人相見)を呼んで占ってもらっていたときのこと、貴顕の人相のことが話題になりました。
道隆や道兼のことを聞くと、「立派な相でございます。しかし、中宮大夫道長殿の相こそ素晴らしいもので・・・」と言います。
伊周のことを聞くと、「高貴な相で雷相と申しますLと言い、雷のように一時は権勢が強いが、最後まで成し遂げることができない相だと説明した。
そして、また「道長殿の相こそ・・・」と言います。
事ごとに道長を引き合いに出すのを不思議に思って尋ねると、「道長殿の相は『虎の子が奥山の峰を渡るが如し』という最高の相で、その容貌・容姿は毘沙門天のようです。きっと誰よりも抜きん出られることでしよう」と説明した。
この相人は、伊周の一時の栄達と左遷、そして道長の栄華を、その人相から読みとっていたのです。
のちに太宰帥になった藤原実成も、人相を見るのにすぐれていたといいます。
彼は道長の長男顕信が牛車の窓から差し出した顔を見て、今年甲に出家することを予言したと伝えられています。
また、源義経は鞍馬山の天狗から相法を伝授されたといいます。
室町時代になると相法は主に僧侶が行なうようになり、天山の『先山相法』などが編まれたが、江戸時代には浪人による大道人相見も増えたことによって一般に普及した。
水野南北(1757~1834)などは、髪結床や風呂屋などに勤めて人相の研究に努めたといいます。
明治以降は西洋の人相術も紹介され、東西の占術を混清させた観相術が各家によって考案されるようになりました。
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